武田を滅ぼし富士遊覧中の信長は正2位で前右大臣右近衛大将です。
*正2位のままで右大臣右近衛大将は返上した。
家康の従4位上右近衛権少将とは格が違います。家康があそこまへつらうのも頷けます。
*因みに追放前の足利義昭は職務は征夷大将軍だが位階は従3位でした。
信康築山殿事件前後から武田滅亡までの日本の歴史はザクっと以下の通りです。
1578年 5月に御館の乱(おたてのらん)
越後の上杉謙信の後を継いだ上杉景勝と武田勝頼が組み、
北条氏政が武田勝頼と反目し信長、家康陣営に鞍替えしました。
1579年 5月に、後の二代将軍徳川秀忠誕生。
同月に安土城の天守も完成しています。
8月に信康築山殿事件勃発。
1580年 正月、羽柴秀吉が三木城を攻略し城主別所長治切腹。
8月に石山本願寺合戦終結、佐久間信盛19カ条の折檻状を突き付けられて追放される。
1581年 3月に家康が高天神城を武田から奪取する。
7月に羽柴秀吉が鳥取城を包囲する。*世に悪名高い、鳥取城渇え殺し(かつえころし)
9月、天正伊賀の乱で伊賀の反信長忍者集団殲滅される。
当時人口10万人といわれた伊賀国人の3万強が殺戮された。
100名あまりの伊賀衆が服部半蔵経由で三河に逃亡したらしいが、
ドラマでは、その事を家康は信長に突っ込まれていた。
*今回の大河ははしょるとこははしょるが細かいとこは細かいなぁ。
1582年 1月に天正遣欧少年使節団が長崎から出航する。
2月に浅間山噴火。
甲斐の守護山?浅間山の噴火を武田家の終りと結び付けた人が多く、
武田家の抗戦意欲が大きく削がれた。
2月2日、木曾義昌が勝頼に対し謀反を起こす。
2月3日、信長、甲斐侵攻の為、各方面から出陣命令を出す。
駿河から家康、飛騨から金森長近、関東から北条、伊奈から嫡男信忠。
2月12日、信長の嫡男信忠出陣。
2月14日、武田方で信州小笠原信峯(のぶみね)織田方に寝返る。浅間山の大噴火。
2月16日、鳥居峠で織田軍と武田軍激突、織田軍圧勝。
2月18日、家康、浜松城から駿河方面に出陣する。
2月21日、家康、駿府に入る。
3月2日、織田信忠(信長の嫡男で跡継ぎ)高遠城を攻略。仁科盛信(勝頼の弟)討死。
3月3日、勝頼、新府の城に火を掛け退去。*勝頼の本城。
3月4日、家康、早くから内通していた穴山信君と会見。
3月8日、信長、岐阜城より甲斐に出陣する。
3月10日、家康、甲斐の市川(今の山梨市)に到着。
3月11日、織田の将、滝川一益、川尻秀隆が田野を包囲、勝頼、自害。
3月14日、信長、信州浪合(長野県阿智村:満州開拓会館のある所)
で勝頼、信勝の首実験を行う。
3月19日、上諏訪で家康、信長と合流。
3月29日、家康、信長より恩賞として駿河一国を与えられる
*信長から知行を与えられた事から信長家康間に主従関係があった事が決定。
取り敢えず、今回もこんなとこです。
信長が京への帰路、東海道経由で帰り、家康の接待を受けた事は定説です。
地元、御油にも信長が富士山を見ながら食事をした、と伝わる場所があります。