徳川家康と松平一族(13)武田勝頼との7年戦争。
設楽が原合戦で信長の援護で大勝した家康でしたが、まだまだ勝頼の力は徳川一家で征伐できるものではなく、信長の理不尽な要求に屈しながら、7年もの年月を費やし武田の脅威を排除しましたが、それは新たな始まりの為の終わりでもありました。
設楽が原合戦で信長の援護で大勝した家康でしたが、まだまだ勝頼の力は徳川一家で征伐できるものではなく、信長の理不尽な要求に屈しながら、7年もの年月を費やし武田の脅威を排除しましたが、それは新たな始まりの為の終わりでもありました。
家康の父の広忠は10歳で父の清康と死別し、後継者問題で叔父の信定に命を狙われ、伊勢や遠江に逃亡します。今川義元を後ろ盾に、なんとか三河に戻りますが、依然信定や新たに反広忠派のまわった信孝と対立。24歳で何とか解決するが、その直後、家臣岩村八弥に暗殺されます。
1500年代に入り、駿河の大大名今川氏親と伊勢宗瑞事北条早雲の侵攻を辛くも退けた長忠と弟信定との家督争いで騒動を起こした信忠、そして三河を統一し尾張に侵攻を開始した直後、守山の陣で家臣に勘違いで殺害された清康。松平家は一転して奈落の底に突き落とされます。
時宗の僧、徳阿弥が松平太郎左衛門家に婿養子で入り、松平郷から岩津に進出。室町幕府足利将軍家の奉公衆となり、信光の代には安城や幸田、蒲郡、豊川の一部のまで、その勢力を拡大して行きます。三河に登場した新興武士松平氏の始まりを調べました。
武田勝頼への内通疑惑、妻徳姫との夫婦中の悪化と信長への告げ口など諸説はあるが、信長から、信康は織田徳川両家の為に好ましくない人物だから廃嫡し切腹させるべし、とのお達しがあり、泣く泣く手にかけた、、、、と歴史小説には記述されているが、果たして真実は?
信玄の死後、奥平氏は早々に勝頼を見限り家康側に鞍替えします。勝頼にとって奥平氏だけは許されない存在となります。その奥平氏を餌に長篠に勝頼を釘付けにする家康。絶対降伏できない奥平と絶対見過ごしにできない勝頼。長篠には三者の譲れないこだわりがありました。
信玄の西上ルートについては諸説ありますが、ここでは青崩峠から秋葉街道南下ルートを時系列で追っていきたとおもいます。家康以下徳川方の諸将は随所で武田軍に徳川家康侮りがたし、を印象付ける戦いをしています。
永禄10年、嫡男信康と信長の娘、徳姫が結婚し、後方の憂いを無くした家康は、ついに遠州攻略に向かいます。永禄11年の2月に侵攻開始し翌12年の5月には氏真を遠州掛川城から追放し、わずか1年半ほどで遠州を手中に治めますが、それは新たな強敵を生みました。
三河一向一揆を鎮圧し、東三河も手中に収めた元康は名前に先祖八幡太郎義家の家の字を入れ、家康に改名しました。永禄9年、朝廷から従五位下三河守に叙任され、この時より徳川を名乗りました。徳川三河守家康の誕生です。
万に一つも負けるはずのなかった合戦で事もあろうか、太守義元が討ち死に。まさしく、どうする家康。苦難を乗り越え本拠地の西三河四郡を配下に治める元康。