大久保一族【三河犬とは大久保一族なり】
大久保一族は松平3代当主の信光の代より使えていると言われているが、三河物語には①宇津忠茂の記述が最初である。 ①宇津...
大久保一族は松平3代当主の信光の代より使えていると言われているが、三河物語には①宇津忠茂の記述が最初である。 ①宇津...
調べてみれば、結構な策士で、知多郡、碧海郡で24万石も育んでいた事が、それを物語っています。家康、信長にも重宝され、またそれだけの存在感がありましたが、徳川水野の連合軍は手強い、と感じた信長の猜疑心の為、殺害されました。
下尾張4郡の奉行に過ぎなかった信秀だが津島、熱田の湊を制し東海一の金持ち武将でもあった。その金で傭兵を雇ったり、朝廷の献金し官位を買ったり、一説には焼き物の町、常滑で鉄砲を作ろうとしていたとか作っていたとか。信長も面白いが、信秀はかなり魅力的だ。
家康の軍師であり、参謀でもあった人物で酒井左衛門尉家の当主です。信長や秀吉からは時としては家康以上に気を使われた徳川家の重鎮でもあります。小田原城合戦後は井伊直政、本多忠勝、榊原康政ら若手が台頭して来た為、後進に道を譲り京都に隠居しました。
設楽が原合戦で信長の援護で大勝した家康でしたが、まだまだ勝頼の力は徳川一家で征伐できるものではなく、信長の理不尽な要求に屈しながら、7年もの年月を費やし武田の脅威を排除しましたが、それは新たな始まりの為の終わりでもありました。
2022年家康公検定で念願の満点=100点を取れました。まさしく好きこそものの上手なれ、の真骨頂です。
家康の父の広忠は10歳で父の清康と死別し、後継者問題で叔父の信定に命を狙われ、伊勢や遠江に逃亡します。今川義元を後ろ盾に、なんとか三河に戻りますが、依然信定や新たに反広忠派のまわった信孝と対立。24歳で何とか解決するが、その直後、家臣岩村八弥に暗殺されます。
1500年代に入り、駿河の大大名今川氏親と伊勢宗瑞事北条早雲の侵攻を辛くも退けた長忠と弟信定との家督争いで騒動を起こした信忠、そして三河を統一し尾張に侵攻を開始した直後、守山の陣で家臣に勘違いで殺害された清康。松平家は一転して奈落の底に突き落とされます。