築山へ集え(第24話)どうする家康。

 

まあ、今回の内容の全般はフィクションだね。

 

あの時代、女性があんな強い意志を持って、しかも大物にアクションを起こすって、あり得ないです。

 

 

瀬名は今川氏の縁者で、

 

今川義元を打ち取って今川氏滅亡の原因をつくった信長を、嫌っていたと思います。

 

今川と徳川の人質交換で岡崎に戻って来ても

 

岡崎城には入城できず、岡崎城外の築山に館を用意してもらいそこに住んでいました。

 

ここはドラマ通りですが、織田信長への遠慮で家康が岡崎城に入れなかったようです。

 

 

家康の浜松移転後は息子信康の入った岡崎城に住んでいた様ですが、

 

信長に対する愚痴を、信康に言っていたと思います。

 

その為、信康は、義理の父とは言え信長の事を家臣の前でも軽く罵る様な発言はしていた様です。

 

それに加え、信長に卑屈な父家康との仲もどちらかと言えば悪かったみたいです。

 

 

家康にとっては、反織田思想の信康に後を継がせていいものか、嫁の五徳の父でもある信長に

 

「信康を廃嫡してもいいですか?」の確認を取っていて、信長からは

 

「そこは、徳川の事だから家康が決めていいよ、五徳の事は気にせんでいいよ」

 

みたいな返事を貰ってたようです。

 

 

同じ頃(ちょっと前)、溺愛していた於愛の方(広瀬アリス)との間に待望に男子が生まれます。

 

家康は信康に、

 

「そなたを廃嫡はするが長丸(生まれていた子、後の秀忠)の為に筆頭家臣として助けてやってくれ」

 

って頼みますが、

 

信康も、「いいっすよ、了解しました、」なんて言えないよね。

 

 

家康は信康が岡崎にいる限りは

 

信康派の武将が信康を担ぎ出しどのような動きをするかわからないので、速攻で信康を捕縛します。

 

これが8月3日

 

翌8月4日には大浜城(今の衣浦海底トンネルの辺り)

 

→8月9日には堀江城(舘山寺動物園付近)

 

→9月初旬二俣城移動、となります。

 

この1か月半の間に家康は手を尽くして信康を説得するが信康が首を縦に振る事はなく、

 

9月15日、ついに信康は切腹します。

 

築山殿は8月29日に佐鳴湖西岸で自害しています。

 

 

因みに武田信玄は嫡男で正室三条の方との間に生まれた義信を意見の相違から

 

廃嫡、切腹までさせ、溺愛していた諏訪御料人との間にできて諏訪勝頼改め武田勝頼を

 

四男にもかかわらず跡継ぎにしています。

 

これが勝頼と山県、馬場らの家臣との関係をギクシャクさせた原因です。

 

 

東北の雄、最上義光も嫡男義康に家督を継がせますが、

 

二男の家親が家康の近習を務めていた縁もあり

 

1608年、家康から家督は二男の家親が継ぐがよろしかろう、と言われ、

 

義康を廃嫡切腹させ、家親に後を継がせています。

 

まあ、意見が合わなければ親子で戦う。

 

ただし、どっちが勝っても、その家自体は弱体化する。

 

そうなるくらいなら、子とはいえ御家の為、廃嫡、意に添わなければ殺害やむなし、

 

が当時の武家社会だったかもしれません。

 

 

この天正7年に起きた信康築山殿事件は実は

 

天下人になった徳川の名に傷がつかない様に、

 

五徳の弾丸状やら築山殿を悪女に仕立てた武田への内応説などが定説となりつつありますが、

 

実は家康信康父子間での権力争いが原因のクーデター未遂事件が原因の事件でした

 

 

ちょっと本題から外れるけど、三河武士は犬のように忠実、と言われてますが、

 

三河一向一揆しかり大賀弥四郎事件しかり、水野信元事件、そして今回の信康築山殿事件しかり

 

家康って結構身内や家臣から裏切られてるよね(涙)

 

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