徳川家康と松平一族(7)、三方が原合戦、武田信玄の死
信玄の西上ルートについては諸説ありますが、ここでは青崩峠から秋葉街道南下ルートを時系列で追っていきたとおもいます。家康以下徳川方の諸将は随所で武田軍に徳川家康侮りがたし、を印象付ける戦いをしています。
信玄の西上ルートについては諸説ありますが、ここでは青崩峠から秋葉街道南下ルートを時系列で追っていきたとおもいます。家康以下徳川方の諸将は随所で武田軍に徳川家康侮りがたし、を印象付ける戦いをしています。
永禄10年、嫡男信康と信長の娘、徳姫が結婚し、後方の憂いを無くした家康は、ついに遠州攻略に向かいます。永禄11年の2月に侵攻開始し翌12年の5月には氏真を遠州掛川城から追放し、わずか1年半ほどで遠州を手中に治めますが、それは新たな強敵を生みました。
三河一向一揆を鎮圧し、東三河も手中に収めた元康は名前に先祖八幡太郎義家の家の字を入れ、家康に改名しました。永禄9年、朝廷から従五位下三河守に叙任され、この時より徳川を名乗りました。徳川三河守家康の誕生です。
万に一つも負けるはずのなかった合戦で事もあろうか、太守義元が討ち死に。まさしく、どうする家康。苦難を乗り越え本拠地の西三河四郡を配下に治める元康。
人質交換で岡崎に戻って来た竹千代ですが、2,3日の岡崎滞留後、駿河の今川義元の下に送られます。駿河での生活は人質というよりは三河の味方衆の忘れ形見、みたいな感じで、結構大切にあつかわれていた様です。烏帽子親が義元、嫁の父は関口氏純だった事からも伺い知る事ができます。