徳川家康と松平一族(11)永正三河の乱から守山崩れ

5代長忠は1501年、29歳と時に父親忠を失い、松平連合?のリーダーの地位に付きます。安祥松平2代目で基本的には岩津松平が衰退中とはいえ本家、、、と言うか番長になるので、まぁ西三河の副番というか裏番的な立ち位置だったということです。長忠は嫡男の信忠より三男の桜井松平の信定を溺愛した為、信忠は早々に悪名を着て称名寺に隠居し僅か13歳の清康に後を継がせます(まぁ、信忠も信定も後を継がない、折衷案みたいな感じです)。ところが清康が着々と西三河を制覇し、ついには奥三河の宇利や渥美半島の田原まで制圧しちゃいます。そんな中でも信定は尾張の織田信秀の妹を嫁にもらい自分の妹(清康にとっては叔母)を信秀の弟の信光に嫁がせたりして、三河を騒乱、騒乱の方向に向けてしまいます。それでも長忠は信定派で何となく清康、信定の間を調停にはいりながらもムニュムニュしちゃっています。この優柔不断さが松平一族に悲劇を生み、松平一族のチャンスを潰していきます。

よって長忠の良かった時は今川、伊勢の強力な連合軍をなんとなく三河から退かせた事だけで、実は信忠以上に暗鈍な人物だったかもしれません。では、前置きが長くなりましたが長忠と永正三河の乱を紹介します。永正8年(1508年)頃、遠江の守護にも任命された今川氏親は、遠江安定の為に三河の有力国人衆に一撃をくらわして今川は強いで遠州にちょっかいはだせないな、との認識を持たせる為に三河に侵攻します。その折、西三河に対しては大樹寺に陣を張り岩津城を攻撃します。岩津松平家の主だった武将は悉く討ち死にし長忠は安祥の兵500人を率いて悲壮な覚悟で岩津救出に向かいますが今川の客将でこの遠征軍の大将でもある伊勢宗瑞こと北条早雲の軍勢は約10,000余騎。しかし矢作川を挟んで2,3日後、今川軍は突如撤退し、東三河今橋城の牧野古白を攻めます。3か月の後、今橋は落城し付け城的存在の石巻城も落城。続いて宗瑞は伊奈へ侵攻し本多氏も屈服させ、安祥に再度攻めてくることもなく本国に撤退します。この今橋城攻略は西三河侵攻の前だった、という説もありますが正しい時系列は不明です。長忠が止めを刺されなかった事実を考慮すれば上記の時系列が正しい気がします。そしそし今川方の認識では松平宗家は安祥松平ではなく岩津松平だった、とうい事でもありそうです。だから矢作川を渡って少なからずリスクのある安祥城攻めまでしなくても、と考えたと思います。今川が三河に来た目的は、あくまでも三河に一撃食らわして遠州にちょっかいを出せない様にすることであり三河国人衆の殲滅、三河占拠ではないので目的は充分に達成できたという事です。そして、この長忠の代から家臣になった、いわゆる安祥譜代といわれる家で有名どころに青山家があります。関ケ原合戦後、関東奉行として辣腕を振るったのが青山忠成(他に内藤清成と本多正信で3奉行)の先祖です。青山家は江戸時代を通じ2藩を出しました。篠山藩6万石と郡上藩4万8千石です。

安祥3代の信忠ですが、彼は暗遇で慈悲の心もなく残忍で、、、、と三河物語には記述されていますが具体的に何をしでかした、という記述はなく、おそらく安城4代目の清康を美化する為に、父は駄目だったがその子の清康は、、、に使われたに過ぎないと思います。現に永正三河の乱では父長忠と一緒に出陣しています。1508年末、ちょうど今川軍が撤退し、少し安定期に入った頃に家督を譲られています。そして嫡男清康が13歳の時に家督を譲った、とあるから大永3年(1523年)に隠居し先祖の霊が眠る称名寺で余生を送ったと伝わっています。余談ですが、この称名寺って1339年に正阿という新田一族の血を持つ僧によって建立されたとホームページに載ってました。となると、新田一族の世良田氏の徳阿弥(後の初代親氏)がこの寺に流れ着いたのも偶然ではなかったのかもしれません。

そして清康です。清康は後を継いだ翌大永4年(1524年)には岡崎中心に安城松平最大のライバルだった松平信貞(西郷信貞)を山中城への雨中夜襲で降伏させます。信貞は妹の波留姫を清康に嫁がせ、岡崎城(明大寺付近)と山中城を清康に引き渡し、幸田町大草に隠居します。清康は安城松平の中の清康派と安城松平と同等軍事力を持つ岡崎松平(前信貞配下)を無傷で手に入れました。また安城城の鬼門守護の薬師堂と六坊を岡崎に移転させます。これは松平宗家は父を当主の座から追いやった長忠や桜井松平の信定(長忠に溺愛された三男で信忠の弟)の安城一派ではなく岡崎の清康だぞ、と西三河内外への宣伝にもなりました。それともう1つ、付け足します。先の長忠、信忠の頃は散々三河を荒らしまくった今川氏は当主の氏親は1518年、若しくは1523年に中風に罹りほぼ寝たきりで政務も取れず1526年まで過ごしていたそうです。氏親の後を継いだ氏輝も13歳と若く、今川家は遠州を抑えるのがギリギリで三河なんぞは夢のまた夢状態だったそうです。この辺も清康、持ってるねぇ。

浄土宗,拾玉山大林寺。清康、広忠と清康の妻波留姫、そして敵対していた西郷信貞とその父、頼嗣の墓があります。ああ無情
岡崎城の鬼門守護の寺,天台宗の長輝山甲山寺

清康は翌大永5年(1525年)足助の鈴木重政を降伏させます。鈴木氏とは因縁の間柄で、親忠の代と家康の初陣の際も戦っています。

大永6年(1526年)には尾張の守山を攻略し桜井松平で叔父にあたる信定を守山に配置しています。

大永7年(1527年)には居城を安城から岡崎に移します。(最近では1530年説の方が有力)

翌享禄元年(1528年)、今の欠町辺りで鷹狩りの最中に襲撃を受けます。この後も2度ほど襲撃を受けますが、清康は戦上手で軍事力もあったが、三河国内にも反対派が多かったようです。そしてこの年から翌年にかけ、小島(今の西尾市)城を攻略し吉良氏の国人で力を持っていた荒川氏を恭順させます。荒川氏は後年、家康を苦しめた一向一揆の時も反家康にまわり、ついには許されず国外追放され歴史の舞台から姿を消していきます。また吉田城の牧野氏を城前の下地で打ち破り、野田菅沼定則や作手の奥平定勝、伊奈本多氏も配下に加え田原城と戸田宗光を屈服させます。、翌享禄3年(1530年)東三河八名郡宇利城の熊谷忠重を屈服させ、翌享禄4年(1531年)安城松平派と和解し、ここに長年の冷たい戦争状態を終了させ、三河をほぼ統一します。

是ノ字寺こと龍海院。1530年、なぜ曹洞宗の寺院を清康が建立したのか?松平家は浄土宗です。
六所神社、徳川家の産土神。楼門前の石段は5万石以上に大名しか上がることが許されなかった。

享禄5年(1532年)井田野合戦後、中條氏に代わって加茂郡で台頭してきた元中條氏の家臣の三宅氏と6年前に降伏してきた鈴木重政の連合軍との戦いに入りますが天文3年(1534年)には三宅、鈴木氏の逃亡で戦闘は終結しました。そしていよいよ翌天文4年(1535年)清康は運命の尾張国守山に10,000余の兵を率いて出陣します。ここで1つ大きな疑問が発生します。清康は守山で誰を攻撃するために出陣したのかです。守山には、かつての父の宿敵で最近正式に和解した、桜井松平の信定が入っていました。ちなみに信定の妻は織田信秀の兄妹で、信定の妹が信秀の弟の信光の妻でもありました。近年までは那古屋城の織田信光を攻める為の出陣だったとありますが、おそらく獅子身中の虫で三河唯一の適性勢力、叔父でもあり守山を守備していた桜井信定を成敗する為の出陣だったと考えられます。

そして、清康の死は突然訪れます。早朝、馬が暴れて清康の陣内が騒がしくなった事を、かねてから清康に誤解されており、誅殺されるのでは?との噂の有った阿部大蔵が成敗された、と勘違いした子息、弥七郎が清康を背後から刺し貫いた。清康は絶命し、25歳の生涯の幕を閉じた。そして、これを機の岡崎松平は衰退の一途を辿ります。清康の子、広忠は信定によっによって三河を追われ、伊勢にまで逃亡します。その後暫くは信定中心に尾張や加茂郡、今川とも戦のない時期を迎えれた事を考えても織田に急接近していた信定が黒幕で清康を暗殺した、とみるのが正解だろう。

随念寺。清康の遺骸はこの地で荼毘に付されたと伝わっています。ここには清康とその妹で於大の離別後家康の育ての母親的存在だった、お久の方の墓が建てられています。
中央の山の頂に宇利城があります。清康は3,000の兵で攻めたそうです。

三河物語には、弥七郎を日の元一のおおたわけ、と評し、清康が後5年生きていれば天下はたやすくとれたであろうに、と記述されていますが、まぁ、それはないだろう。そして、清康斬殺の時に阿部弥七郎が用いた刀は、妖刀村正であり、岩松八弥が広忠殺害に使った刀も、家康の嫡男信康の介錯に使った刀も妖刀村正であった。村正は伊勢桑名の刀工が作った刀で、その切れ味から武勇を貴ぶ三河武士から特に人気があった。初代村正作りの刀工(とうこう。刀鍛冶と同じ意味)は文亀年間につくっているから三河では長忠の時代から出回ったと考えられます。ちなみに、あの真田幸村も村正を愛用していました。

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