徳川家康と松平一族(12)松平広忠の苦難。

阿部家夢物語によれば、清康は天文4年(1535年)12月5日に守山で殺害されます。そして同月27日、織田信秀は8,000余りの兵で岡崎に押し寄せます。若干10歳(一説には13歳)の広忠に代わり松平十郎三郎(清康、信孝の弟、鵜殿康孝と思われる)が大将となり1,000弱の兵で防衛に努めます。ここは辛くも逃げ切ります。以上の太字の部分が清康の死後、勢いに乗って三河に迫って来た織田信秀を追い返した、井田合戦として伝わっていますが、最近ではもう少し後に起こった広忠と信秀の合戦とも言われています。ちなみに井田合戦の事は三河物語にはこの時期に起きた戦としての記述があります。ただ、これが嘘だろうと真実だろうと、10歳程度の広忠じゃあ、今後不安だよね、となり、信秀と結託説の有る信定が広忠排除に動きます。この頃の当面の敵は今川ではなく織田だったので、その織田といい関係の信定に票が集まったって感じです。翌天文5年3月頃、広忠は父清康を殺害した阿部弥七郎の父の阿部大蔵に庇護され伊勢に逃亡します。(これもまた奇妙な話です)松平記には、内膳はご隠居を騙し岡崎知行を押領し広忠を内々にて追出した、との記述があります。内膳とは桜井松平信定の事で、ご隠居とは松平長忠の事です。天文6年早々に伊勢の国で元服した広忠は吉良持広肝いりで今川義元に助力を申し入れます。しかし直後に持広は没し、後を継いだ吉良義安は同族で弟筋の今川家にお願いをする事を嫌い広忠と義元の関係は切れそうになります。その為、阿部大蔵が駿府に出向き、義元に近状を伝え助力を強く訴えます。花倉の乱も決着もおさめ今川当主の座を堅固なものにした義元は余裕を見せ、阿部大蔵の頼みを快諾します。広忠は、室塚(今の静岡県磐田市)から世喜(宝飯郡瀬木、牧野氏の最初の居城のあった場所)、形原、室に進み、岡崎城帰還の機を伺います。

地元だから乗せちゃいました。世喜の城址清康に恨みを持つ牧野氏の居城があった土地だよ(汗)

信定は大久保忠茂に7枚もの起請文を伊賀八幡宮宛てに書かせて忠誠を誓わせますが、大久保は平然とこれを破り捨て、松平蔵人(三木信孝)に広忠の岡崎城帰還の相談と助力を願います。これに先立ち信定は信孝らと室の広忠を攻撃しますが不成功に終わっています。同天文6年6月、信孝は湯治で有馬に出かけるからと城を空けます(そもそもこの戦国時代に三河くんだりから兵庫県の有馬まで行くか?ちゅうかまずは有馬温泉自体を知ってるか?)そのタイミングで広忠は岡崎城に帰還。譜代衆の多くが広忠を出迎えたため。もはや戦っても利あらずと信定は広忠に和睦を申し込みます。この時の譜代衆の出迎えも織田信秀&桜井信定か今川義元&松平広忠か、どっちが自分の為に安心か?をそれぞれの譜代衆が考え、今川義元&松平広忠が選ばれた、という事です。決して従順な三河武士が清康の忘れ形見の広忠を待ち望んでいたのではない、という事です。まぁ,なにわともあれそれから2年後の天文8年(1539年)に宿敵桜井松平信定は没します。内部の敵が没し、一息入れる間もなく広忠の前には強敵、尾張の織田信秀が立ちふさがります。

天文9年(1540年)には第一次安祥合戦が勃発します。その前に、織田信秀について軽く記述します。信秀は岩倉城を居城に尾張下郡(愛知、知多、海東、海西)の守護代織田信安の三奉行の一人に過ぎなかったが津島(後に熱田湊)を抑え経済力と私兵を蓄え、その力は岩倉、清州の守護代を凌ぐものになっていた。信秀は以前より、今川氏に恩を感じる広忠が松平当主になっている事を苦々しく思っていた。そして天文9年(1540年)になり、これ以上今川や松平の勢力が西に来る事を阻止する為、三河進出の機会を伺っていました。同天文9年2月、広忠は機先を制し織田方の鳴海城を攻撃するが攻めきれずに敗走。同年6月には水野忠政を味方につけ約3,000の織田水野の連合軍は三河に乱入します。迎え撃つ松平側は約1,000人で大将の安祥城主、松平長家(親忠七男)、矢田康忠(親忠の八男張忠の子)松平信康(広忠の弟)が討ち死にする大敗を喫します。現安城市上条町浜道には両軍の戦死者を葬った富士塚や千人塚、東条塚などあわせて13の塚が残っています。

13塚の内の1つ、東条塚。これは援軍として駆け付け討ち死にした東条松平康忠戦死跡地に築かれた塚です。

この合戦以降約10年間、安祥城は織田方の城となり、矢作川以西は織田の勢力下に入ります。佐々木町の松平忠倫や上野(現上郷町)の酒井忠尚も織田信秀に従うようになります。広忠は義元に窮地を訴え再度の助力を要請します。これに対し、少なからず今川義元はいい反応を示したようで、天文10年(1541年)に刈谷の水野忠政は再度松平方に付く選択をし、於大を広忠の室をして岡崎に送ります。翌天文11年(1542年)8月、今川義元は4万とも言われる大軍を援軍として三河に送り込みます。ただし、この頃の今川は北条氏綱に駿河の河東郡を占拠されたまま奪回できず、遠州では花倉の乱で惠探側に付いた堀越氏や井伊氏とも紛争を起こしており、4万は送れなかったと思います。せいぜい1万かな?それよりも今川軍が松平を助けに三河に来た、という事が結構な宣伝にはなったようです。織田信秀の軍は4,000人。両軍は岡崎市羽根町の小豆坂で激突しますが、平地が長細い為、大軍が上手く立ち回れず今川松平の連合軍は織田信秀に惨敗しています。そして同年の12月26日に家康が誕生します。天文12年(1543年)広忠は不仲になっていた叔父の三木信孝を駿河に追放します。獅子身中の虫を一旦は退治したようですが、同年の夏、頼りにしていた義父の水野忠政が病没し強力な後ろ盾を失います。また駿河から脱走した信孝が山崎に城を立て、安祥城の付城として広忠氏反旗を翻します。天文14年(1545年)9月、広忠は安祥奪回の為、出陣しますが清畷で城兵と背後の信孝軍に挟まれ大敗北を喫します。

この戦いで本多平八郎の祖父、忠豊は清畷のこの地で主君広忠に代わって討死しました。
安城南部小学校前付近が清畷の辺りだと言われています。

この広忠勢のやられっぷりに水野忠政の後を継いだ信元は於大と広忠を離縁させ、再度織田方に寝返ります。天文16年(1547年)今度は信孝からしかけ矢作川の川原で広忠の松平勢と戦います。広忠方は鳥居忠宗(元忠の兄)の討ち死にもあり何とか辛勝します。しかし事、ここに至り広忠は信孝派で上和田城主の忠倫(ただちか)を策略で殺害するなど正攻法での対抗は難しい状況に追い込まれます。これに激怒した信秀が久振りに4,000の尾張勢を率いて三河に進軍。広忠は竹千代を人質に今川義元に援軍を懇願します。この2度目の小豆坂合戦は今川方も辛勝って感じで終了します。しかし、依然安祥城は織田軍の城で、一旦織田勢を矢作川より西に追い払っただけに過ぎません。しかし、弱いなぁ広忠は、弱い(涙)そりゃあ信孝や忠倫も背きたくもなるぞ。

矢作川西岸で行われた渡合戦跡地。広忠VS信孝。

このままだと、いよいよ義元にど叱られる(恐)。天正17年(1548年)4月山崎城の信孝は再度しかけてきます。しかしこれを迎え撃った広忠軍の石川清兼、酒井正親隊のどこからか乱戦の中偶然はなたれた1本の矢が信孝の眉間を打ち抜き、信孝はあっけなく没します。清康や信孝、そしそし、この後の広忠と松平の殿様は結構あっけなく亡くなっちゃいます。天正18年(1549年)3月、広忠は岡崎城内で家臣の岩松八弥によって殺害されます。若干24歳でした。広忠を切った刀は当然村正です。追記ですが、広忠の家臣達は広忠の死を今川義元に知らせるのが遅れた為、義元から、ここまで無償で援助してたのに広忠亡き後は竹千代を人質に取っている織田に寝返るつもりだったのか、と疑われ、竹千代奪取以降、三河武士は対尾張の戦では常に最前線に立たされ、牛馬の様に酷使されました。その後、今川義元は、乗馬もできないお歯黒大将とは思えない動きで大原雪斎に20,000の兵を預け、安祥城を攻略させ信秀の長子、信広を生け捕り竹千代と人質交換します。一般的には前にも書いた通り、笠覆寺で人質交換は行われたとされていますが、安城では、安城市大山町1丁目の現秋葉公園内の西野で交換されたと記録されています。

安城では、ここ安祥閣横の秋葉公園内、西野で人質交換が行われたと伝わっています。
この戦いで本多平八郎の父、忠高がこの地で戦死しています。

取り戻された竹千代は数日の内に今度は駿府に連れていかれます。広忠没後から人質交換までの松平一族、家臣団の対今川への振る舞いはかなりアウトだと感じます。そしてもう1話、本多平八郎忠勝は祖父(忠豊)と父(忠高)を戦で無くした為、父の弟で叔父にあたる忠真に育てられますが、その忠真も三方が原の合戦で討死します。忠勝はというと生涯60度の合戦に参加し一度も負傷、傷を負ったことがない、と言われています。

ちょっとここで、広忠が八方ふさがりになり、今川義元の下に竹千代を人質として送るからと助力を要請する辺りまで、天文16年(1547年)頃まで話を戻します。

広忠の援軍要請を受け、義元は西三河出陣にかかりますが北条氏康との間で勃発していた河東の紛争が治まったが、まだ旧領の河東は北条に盗られたままの状態、やっぱり治まったというよりかは、休戦状態って感じでした。それに加え東三河の牧野氏と戸田氏が領地の事でもめ、それに伊那本多氏も加わって、まずはこっちを収めないと、状態でもありました。一方の信秀も越前の朝倉氏や近江の六角氏と連合軍を結成し稲葉山の齋藤道三を攻撃したが惨敗。戦力大幅ダウンの状況な為、できれば広忠に一撃を食らわすだけで、今川とは揉めたくない、と考えていました。そこで、織田今川の間で(平手正秀と大原雪斎)松平含めた西三河は織田信秀が支配し、東三河は戸田の事も含め今川義元が支配する、あたりの密約がなされたのでは、と最近の書物には記述されています。因みにこの頃、戸田は織田方だったので信秀の提案は、戸田の事はあきらめるで、義元君も松平の事はあきらめて、という事です。

この為、今川軍は小豆坂まで出陣するが、そのまま退却。信秀は岡崎城を攻略し広忠を捕縛し竹千代を人質にした、という流れです。その後、信孝は自分が岡崎城主として松平家の当主になれるとおもっていたが、織田信秀としては人質になっている竹千代の父、すなわち広忠が当主の方が裏切る可能性が低いので当主をそのままにし、怒った信孝が広忠を攻撃。広忠としては、ここで負けては実も蓋もないので、超頑張って全敗だった信孝相手に偶然にも勝っちゃった、んです。取り敢えず、当面は織田と今川の戦いはなく、竹千代のおかげで信秀から攻められる事もなく、ホッとして酒と女子に溺れちゃって痴話喧嘩から岩松八弥に刺されちゃった、てことです。う、う~むって一生だなぁ。

広忠は能見のこの地で荼毘佐れました。今は松應寺が立っています。
家康の異母弟、穎新(えいしん)が住職をなり広忠の菩提を弔った広忠寺。

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