徳川家康と松平一族(3)竹千代、元信から元康に

竹千代手習いの間(勉強部屋)

1549年11月、人質交換で熱田から岡崎に戻った竹千代ですが、岡崎には3日ほど滞在し、すぐに義元の待つ駿河に向かいます。それから約10年、竹千代は駿河で人質生活を送ることになります。駿河では今の少将井神社付近に住んでいたと言われていますが定かではありません。

小梳神社、俗に少将井宮
(少将井社)

      かつて、永正の昔(1506年~1509年)義元の父、氏親は伊勢宗瑞(北条早雲)以下10,000の兵を率いて三河に侵攻。渥美の戸田氏、牛窪、今橋城の牧野氏、そして松平宗家の岩津松平氏を屈服させ三河制圧まであと1歩まで迫ったが、竹千代の高曽祖父、長忠以下500余騎の安城松平勢に翻弄され、西三河からの撤退を余儀なくされた。あれから40年、義元は偉大なる父氏親でさえ思い通りにできなかった三河を制圧し、まさに今が旬の名将になっていた。

駿河での竹千代の養育係は、今川軍の軍師で臨済寺の僧侶、太源雪斎と於大の母で竹千代の祖母にあたる源応尼(げんおうに)が務めていた。

臨済寺

源応尼は於富の方とも呼ばれ、その美貌は三河中に鳴り響いていました。初婚は刈谷の水野忠政で於大ら3姉妹を出産、清康、星野秋国、菅沼定望、川口某、の5名と再婚した後、剃髪し家康の駿河行きに同行します。1560年5月、桶狭間合戦に出陣する家康を見送った後に亡くなりました。墓は駿府の華陽院(けよういん)にあります。余談ですが、源応尼の子で於大の姉妹の内の1人、芳春院は、竹千代誕生の際に蟇目(ひきめ)の役を務めた石川清兼に嫁ぎました。もう1人は碓井姫と呼ばれ家康の軍師、酒井忠次に嫁ぎました。

華陽院

駿河での竹千代は、天文23年(1554年)、13歳でカン甲の儀(跡目継承の儀式)を行い、晴れて9代松平宗家の当主である事を義元に承認して貰いました。弘治元年(1555年)義元が直々に烏帽子親となり浅間神社で元服します。名前も義元の『元』の字を与えられ、元信と改めます。理髪の役は今川家重臣の関口氏純が務めました。弘治2年、元信は義元の許可を得て故郷三河に一時帰国します。この時、岡崎城の本丸には入らず、二の丸に入った元信の思慮深さを義元は絶賛したと言われています。弘治3年(1557年)義元の仲立ちで、理髪の役を務めた関口氏純の娘、瀬名を娶り準一門待遇の武将となります。

浅間神社

永禄元年(1558年)、義元の命で三河国加茂郡寺部城の鈴木重辰(しげとき)を討伐、これが信元の初陣となります。この時、恩賞として旧領額田郡山中300貫文が返却されています。この前後に名を元康に変えたようです。元康の康は祖父、清康にあやかっての康の字です。永禄2年(1559年)には長男の竹千代(後の信康)が、翌3年には亀姫(後の奥平信正室)が誕生しています。

松平清康は元康の祖父にあたる人物で無類の戦上手と伝わっています。清康の父信忠の頃の松平家は安城松平氏が宗家で対抗勢力が岡崎松平氏でした。1524年、若干13歳の清康は山中城の岡崎松平政安を夜襲で降伏させると、その岡崎松平の兵力と清康派の安城松平系の武将の兵力を背景に跡目を狙う叔父の信孝を退け、当主の座をゆるぎないものとします。その後、豊田、西尾、1530年には東三河の今橋城を攻略、田原の戸田氏も屈服させると設楽宇利城の熊谷氏を追いやり、10年弱で三河を統一します。1535年、8,000ともいわれる大軍を率いて尾張に侵攻。織田信秀の弟、信光の守る守山城包囲中に勘違いで、近臣の阿部弥七郎に惨殺されます。清康というカリスマを失った松平家は崩壊の一途をたどります。世に言う、守山崩れ、です。

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