徳川家康と松平一族(4)、桶狭間の戦いと三河統一

永禄3年(1560年)5月、今川義元は駿河を嫡男の氏真に譲ると、自ら荷駄隊を含めた25,000の大軍を率いて尾張に進出した。6年前の天文23年(1554年)村木砦の合戦で敗れた今川軍は現在の刈谷、東浦付近から締め出されたが、その後の織田家の内紛に乗じて大高、鳴海まで勢力を延ばしていた。一方信長は大高城と鳴海城を5つの砦で囲み、その活動を抑え込んだ。大高城と鳴海城を救出し更に尾張奪還,上洛を目論む義元は元康に大高城への兵糧入れを命じた。5月18日に元康は鵜殿長輝の守る大高城への兵糧入れに成功。翌19日早朝には丸根砦も攻略し、鵜殿長輝と交代して、一旦大高城に入ります。この元康の大活躍に,予定では沓掛城から鳴海城に軍を進める予定だった義元は、信長本隊が善照寺砦に入ったとの誤報も重なり、おけはぎま山経由で元康の居る大高城に進路を変更します。一方の信長は、鳴海城に向かう今川義元本隊の背後をつく為、太子ケ根付近まで来たところを目の前のおけはぎま山に登る今川義元本隊を発見します。しかも今川義元本隊はその直後の大雨で、山を下り、はざまに入って雨宿りを始めました。信長にとって、まさに千載一遇のチャンス、豪雨が織田方の侵入の音をかき消した事も幸いでした。この合戦で今川義元は討ち死。今川軍は、這う這うの体で駿河に撤退します。一方この合戦に勝利した織田方の一番手柄は一番槍の服部小平太でも、義元の首級(しゅきゅう)を挙げた毛利新介でもありませんでした。一番手柄は今川義元本隊が桶狭間で雨風を避け休憩中と通報した梁田政綱と言われています。当時は1番槍が1番手柄というのが一般的でしたが、桶狭間合戦の勝因が速く正確な情報伝達にあった事を見抜いて、それを大々的に称した信長は非常識な天才でもありました。

桶狭間公園 今川義元(右)と織田信長(左)
合戦時の両軍の動き

義元敗死の報を受けた元康は同19日の夜半、大高城を密かに脱出し20日未明、岡崎の大樹寺に入ります。23日、今川方の城代が岡崎城から駿府に退散した事を確認すると、捨てられた城を拾っても文句は言われまい、と岡崎城に入ります。人質生活を送る事13年、ついに元康は岡崎城本丸に戻って来たのです。しかし、義元の敗死後すぐに三河を統一できたわけではなく、実に5年の歳月をかけ、永禄8年(1565年)にようやく達成しています。

桶狭間合戦後、岡崎城に帰還した元康は西三河でありながら織田の勢力圏になりつつある加茂郡挙母城、梅が坪城を攻略します。また織田方の叔父、水野信元の治める碧海郡にも進出し十八丁畷、石ケ瀬で戦っています。義元の後を継いだ今川氏真からはたびたび駿府への帰還命令が届けられますが、織田軍と交戦中を理由に駿府へ戻ることはありませんでした。そんな中、翌永禄4年早々、上杉謙信が北条氏康の居城、小田原城攻略の為関東に軍を進めます。氏真は北条氏救援の為、伊豆、相模に軍を進める羽目になり三河どころではなくなります。この期に織田、水野と休戦し後方の憂いを断った元康はついに今川氏からの自立と三河統一の為、幡豆郡、宝飯郡に兵を進めます。永禄4年4月、元康は酒井忠次を大将に任命し牛久保城を攻撃します。これに歩調を合わせ、設楽郡や宝飯郡、八名郡の国人衆も今川方を離反し元康の下に馳せ参じます。怒った氏真は吉田城城代の小原鎮実(しげざね)に命じ人質13名を龍拈寺山門前で串刺刑で処刑しました。その亡骸は豊橋市福岡町にあった龍拈寺の墓地に埋葬されました。

吉田城
龍拈寺山門
龍拈寺山門の看板
十三本塚と福岡地蔵尊

同じ頃、幡豆郡攻略には酒井正親を大将とし本多広孝、深溝松平好景らが向かいました。酒井忠次の牛久保城攻撃と同じ頃、松平好景、板倉好重軍は善明堤合戦で今川方の吉良義昭、富永伴五郎軍と激突し敗北、討死しました。同年9月、藤波畷合戦で元康方の本多広考、松井忠次は吉良義昭、富永伴五郎軍を破り、富永一族は滅亡、吉良義昭も東条城を明け渡しました。

吉良町岡山
吉良町瀬戸
吉良町寺嶋

翌永禄5年正月には今川方の武将鵜殿長輝が守る上之郷城を攻略します。そして駿河で人質になっている瀬名姫(元康の妻)、嫡男竹千代(後の信康)亀姫(後の奥平信昌室)と長輝の子、氏長、氏次との人質交換を行いました。ここにきて元康になびかない国人衆は宝飯郡牛久保城城主の牧野成定と渥美郡の吉田城代小原鎮実と田原城代の朝比奈元朝だけとなりました。

同年(1562年)の秋、東三河の形勢を挽回すべく今川氏真は一万余騎の兵を率いて三河に出兵。一宮砥鹿神社付近で元康率いる三河の精兵3千余騎と対峙しますが、駿府で軟禁状態だった武田信虎が子の武田信玄を駿府に引き入れる、との噂がたち、氏真は元康とは戦わずに駿府に撤退します。

家康自身が後詰めをした
本多信俊以下500騎が守備していた

翌永禄6年、いよいよ東三河に本格的に進出し三河統一を狙う元康の足元をすくうような事件が勃発します。三河一向一揆です。

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