徳川家康と松平一族(5)、三河一向一揆と徳川家康の誕生

三河一向一揆の鎮圧                                     永禄6年(1563年)9月、元康は名前を家康と改名し、いよいよ東三河に進出すべく、西三河の各寺院からも兵糧米を徴収します。この時に先代広忠の頃より不入権を認められていた浄土真宗の佐々木上宮寺からも兵糧米を強奪した事に端を発し上宮寺以下、針埼勝鬘寺、野寺本證寺の三河三か寺と土呂本宗寺の門徒宗が一向一揆を起こしました。これに、桶狭間合戦以降で元康に敗れその配下に組み込まれていた八ツ面城(現、西尾城)の荒川義広、東条城の吉良義昭、大草、桜井の松平一族や重臣、石川清兼、酒井忠尚。家康に「正信は友だ」と言わしめた本多正信と弟の正重。利根川東遷工事の総奉行、伊奈忠次、徳川十六将の蜂谷貞次、渡辺守綱、鳥居忠広に忠臣夏目吉信らも加わり家康に反旗を翻しました。この内乱とも言われる一向一揆は翌永禄7年3月頃(1564年)まで、約半年間続きます。最終的には一揆側の蜂谷貞次が親戚関係にある家康側の大久保忠俊に和睦の仲介を頼み、上和田の浄珠院で双方の起請文が取り交わされ和議が成立しました。しかし実際は一揆側の無条件降伏でもありました。和議直後の同年5月頃、家康から出された改宗命令に従わなかった門徒衆は三河の国から追放され寺院も廃却されたとあります。

針崎勝鬘寺
佐々木上宮寺
野寺本證寺

武将では吉良義昭、荒川義広、大草松平昌久は国外追放、酒井忠尚は駿府の今川氏を頼って逃亡、石川清兼は中立を保ったため処罰はされませんでしたが隠居し、その後は嫡男の石川家成が継ぎました。罪を許された夏目吉信、鳥居忠広は三方が原合戦の折、家康を浜松城まで逃がすため、身代わりになって討死します。

東三河進出

一向一揆の鎮圧を終えた家康は再度、東三河に向かいます。この頃になると、東三河の国人衆の奥平氏、菅沼氏、戸田氏(二連木)、西郷氏らは家康に従い、今川氏に義理立てするのは牧野氏くらいでした。また同じ頃隣国の遠江は遠州騒乱と言われる状態で、曳馬城の飯尾氏、二俣城の松井氏、犬居城の天野氏などが軒並みに今川氏から離反し、氏真も三河までは兵をまわせない状況にありました。酒井忠次が小原鎮実守る吉田城を、本多広孝が朝比奈元智の守る田原城を落とし、そこの城主になると永禄9年(1566年)ついに牛久保城の牧野氏が帰順し、ここに念願の三河統一を成しえました。翌永禄10年(1567年)正月3日、従五位下三河守に叙任、性を松平から新田源氏の流れを組む徳川に改めました。ここに戦国大名徳川家康が誕生しました。

牧野氏の居城、牛久保城址
小原鎮実が城代を務めた吉田城
二連木戸田氏の居城跡

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