徳川家康と松平一族(8)、武田信玄の死から長篠の戦い

元亀4年4月、武田信玄は信州の駒場で没します。その死は秘密にされましたが、僅か2月後には知る人ぞ知るところとなります。6月晦日、信玄の後を継いだ(実際は勝頼の嫡男信勝が跡を継ぎ勝頼は一番の補佐役となる)諏訪四朗子と武田勝頼は山家三方衆(田峯の菅沼定忠と長篠の菅沼正貞、作手の奥平定能)に武田勝頼の名で所領安堵状を出しています。翌7月、家康は長篠城の菅沼正貞を攻撃します。この時、年号も元亀から天正に変更されます。またこの頃、すでに奥平定能と家康の間で密約交渉が始まっていたと思われます。奥平が家康に通じている、という噂が武田軍の長篠救出を遅らせたとも言われています。8月下旬、奥平定能は一族を率いて作手を脱出し、額田郡の滝山城(別名、亀穴城)に籠城します。9月初旬、長篠城は落城し城は徳川の手に落ちます。一方、額田郡万足平合戦では徳川の援軍を得た定能は、10倍に近い武田軍を退けます。

作手城本丸跡地より
作手城の説明版
滝山城(亀穴城)跡地
万足平より滝山城(亀穴城)を望む

定能は信玄の死後、いの一番に勝頼を見限り、万足平では武田軍に土をつけた事になります。報復として勝頼は定能の次男で人質となっていた仙千代と嫡男貞昌の許嫁、お風、重臣奥平勝次の子、虎之助の3名を鳳来口で磔にします。

奥平仙千代の墓
奥平勝次の子、虎之助の処刑地址

家康は奪回した長篠城に深溝松平伊忠らを入れ城を増強しています。そして、この前年より天正2年まで約3年間、三信遠地方は未曾有の飢饉にみまわれます。その飢饉の中の天正2年正月、武田勝頼は美濃に出兵し明智城を攻略します。同年3月には一旦甲斐に戻りますが同年5月下旬には遠州高天神城攻略の為、再度出兵します。その軍約20,000人。飢饉で米も不足の中、2万の大軍を動かす勝頼と浜松城で無駄な動きをせず信長への援軍要請にあけくれる家康。

高天神城の城主は永禄12年(1569年)、家康に従属した元今川方の国衆、小笠原氏助です。家康からの伝令は6月5日に京の信長に伝えられ、14日に信長は岡崎に入り、17日には吉田、19日に今切を渡っているとこに氏助降伏の知らせが入り、そのまま吉田城に引き返した、と信長記にはあります。この時、信長は家康に対し遠州の荒廃を叱責し、復興費として黄金を贈ったと言われています。また高天神城援護の為の兵糧も全て家康に送り、岐阜に戻りました。勝頼は高天神城攻略の2,3か月前に今の瑞浪市,御嵩町まで支配下にしており、その勢力範囲は父信玄の時よりの10万石あまり増え歴代の武田領として最大の領地を支配下に組み入れます。

この時期は、家康の同盟者信長は自分と同じ、鉄砲を使った戦をする近畿の反対勢力、本願寺派や根来衆とも戦っていた為、鉄砲玉や火薬を節約していました。その為,多くの鉄砲と使わないと勝ち目のない勝頼との戦いは避けていた節があります。家康も信長があてにできない状態で地元は飢饉となれば積極的な救出戦はできなかったとおもいます。

長篠城は天正元年の9月に徳川軍によって陥落して以来、番持、という状態で五井松平の景忠が預かっていました。そんな中、天正3年2月、万足平で武田軍を退けた奥平貞昌が長篠城主として城に入ります。勝頼としては、真っ先に裏切った奥平定能の嫡男貞昌が籠る城を落とせなかったら面子丸潰れです。一方の奥平定能、貞昌(信昌を名乗るのは長篠城合戦後)父子も、もう寝返りは出来ず、生き残る為には城を守り抜くしかない状況です。

天正3年(1575年)3月頃、家康は信長より贈られた米俵2000俵の内300俵を長篠城に入れます。そして同3月下旬、勝頼は足助口より三河に侵入し4月中旬には長篠城を包囲します。4月下旬下旬には軍を2つに分け勝頼率いる武田本隊は二連木城を落とし、吉田より援護に駆け付けた徳川本隊を「はじかみ原」(今のどこかは不明)で押し返し5月1日に再度長篠城包囲軍に合流します。その後も、武田軍は城を囲みながら三河の月輪村で徳川方の青山忠門を打ち取ったり、牛久保まで進出し火を放つなどし、徳川方を挑発します。5月10日、家康は信長に援軍を要請、13日に岐阜を発った信長は翌14日には岡崎に到着(信じられないスピードです)。16日には牛久保城、17日には野田原付近に布陣します。同じ頃、長篠城に入ろうとして捕らえられた鳥居強右衛門勝商が磔にされ処刑されています。またこの頃、羽柴秀吉、佐久間信盛らの鉄砲隊が武田軍に打ちかかったとの記録があります。この時、すでに陣城と化した松尾山や茶臼山の後ろに織田本隊3万は伏せており、羽柴、佐久間の6千余りが姿を見せるに留まった為、勝頼は織田徳川の連合軍も武田軍をほぼ同数の1万4、5千人と兵数をよみ間違えた、とも言われています。そのよみ間違いが設楽が原までの進軍につながります。

5月20日、織田徳川の連合軍と武田軍は連吾川を挟んで対陣します。この時、信玄子飼いの名将、馬場信房、山県昌景らは前方の川、柵、丘にぬかるんだ田畑と柵内の鉄砲隊を見て突破は不可、早々に撤退すべし、と意見するが、勝頼とその側近が突撃を唱え意見がまとまらず、そうこうしているうちの21日早朝、長篠城を囲む7つの砦が徳川方の酒井忠次に急襲されます。守備隊は敗走、長篠城の兵と酒井忠次隊に伊那街道への退路を断たれます。その為、武田軍は挟み撃ちにあった状態になり全身せざるを得なくなります。

さあ、ここで2つの疑問ですが、1つは、織田徳川の鉄砲は3000丁もあったのか?です。太田牛一の信長公記には鉄砲の数は1000丁と書かれています。合戦の数日前に信長は家臣の細川藤興に鉄砲150丁ほど用立てて欲しいと書状を送っていますが、京都に勢力を張る細川氏ですら150丁なら、まあ、織田だけなら1000丁強、徳川も合わせ1300丁前後ってとこだと思います。ただし、鉄砲の数もさることながら、鉄砲玉と黒色火薬も必要になります。織田の兵は鉄砲隊員1名につき300発の弾と火薬を装備していたらしいですが、武田軍は甲斐の国を出る時に鉄砲隊員1名につき50発、しかも長篠城攻撃でも鉄砲を撃っているので実際、設楽が原の合戦では1名30発で考えて織田軍の10分の1、武田の鉄砲隊の数が300名くらいと考えて、9千発と39万発。鉄砲の数は3000丁もないにしろ武田軍に比べ圧倒的な数だったことに変わりわありません。ちなみに織田徳川の鉄砲数3000丁と記しているのは甫庵信長記です。小瀬甫庵という当時の軍記物の小説家の書き物で物語を盛り上げる為、自分の名を高め就職先を見つける為、かなり盛った記述が多いものです。

もう一つの疑問は鉄砲3段撃ちです。これに関しては明治36年に発刊の旧陸軍参謀本部編集の日本戦史・長篠役に記載された、いわいる信長の3段撃ちみたいな新しい発想が必要だ、の題材みたいな感じで定説になったものであって、3段撃ちをした、という当時の記録、記述は発見されていません。そもそも鉄砲1000丁強がバンバン撃たれれば、その爆音で当時の馬はパニックを起こしてし、音のする方向に突撃なんてとんでもないって感じです。音だけで騎馬隊が無力になり、効果大って感じです。

続いて余談も2つ。1つは当時の馬は今の競馬で走っている様な馬より、高さが40㎝ほど低かったそうです。高さは120㎝程度、今で言う大きいロバレベルです。40キロの鎧を着た155㎝の人間がロバに乗って突撃です。設楽が原は沼の様にぬかるんだ土地です。足場の悪い設楽が原をロバで突撃、もありえないような気がします。それともう1つは、戦が終わり敗走する武田軍を追撃する味方の兵に信長は、窮鼠猫を噛む、の言葉の通り、わざわざ今、武田の息の根を今止めずともよい、武田はもう終わった、追撃は無用、と言ったそうですが、追撃を止め全軍で鉄砲弾集めを行ったそうです。武田軍は馬場、山県、真田兄弟に内藤、土屋などの有名どころが根こそぎ討死し、その気になれば勝頼の首も取れただろうが、勝頼の首より鉄砲弾だったんだ。

武田軍は明銭(永楽通宝)を潰して鉄砲弾にしたといわれていますが、当時、それほど弾は(火薬も)貴重だったのです。

勝頼は田峯城まで落ちのび、一息入れて信州に戻る予定だったが、田峯の兵は徳川方に寝返り籠城体制にはいっていた為、武節城まで落ち、そこで一息入れ、信州に逃げ延びました。高遠城で高坂弾正が勝頼を向かい入れ体裁を整えたのち、甲斐の躑躅が崎に凱旋?しました。

家康は翌6月には遠州二俣城を包囲(同年12月に開城)、7月には二俣城を包囲した状態で武節城、三河光明城を陥落させています。しかし勝頼は、根こそぎ宿老を失う大失態をやっちまったが、翌年には2万前後の兵を率いてたびたび遠州に侵入してきます。家康にしてはまさしく、何でやねん、だったと思いますが、モー暫くは信長に泣きつけず、まだまだ重荷を背負い行く日々が続きます。

家康の本陣があった八剣神社
手前が武田方の陣地で奥が徳川方陣地
田畑に川、凸凹の設楽が原の戦場
武田方の原昌胤隊と徳川方石川、鳥居隊の激戦地
ぬかるみに、馬もしりごむ連吾川

西上野の小幡氏の先祖は奥平氏とは同族です。武田の強さの象徴として真田の赤備えや山県の赤備えが有名ですが、正確には山県隊に属した小幡一門の安中氏の赤備えこそが、その強さの象徴でした。小幡、安中の両氏は、かつては武田と敵対しその軍門に下りました、怨敵武田の先陣として設楽が原一番の激戦地、柳田前で一族が全滅しました。武田生え抜きの武将ではないが為、後世に名を残すこともなく故郷から遠く離れた三河の地に骸をさらした小幡、安中武士団に合掌、合掌、合掌。

武田きっての名将、山県政景は徳川方の大久保忠世隊を攻めきれなかった。名将山県を抑えた大久保隊に、あっぱれ。
連合軍で唯一、城持ち級で戦死した深溝の松平伊忠。深溝松平家は武勇の家でもあり伊忠の父好景は善明堤合戦で嫡男の家忠は関ケ原合戦の前の伏見城籠城戦で討死を遂げている。子孫は島原7万石藩主として幕末を迎えている。

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