徳川家康と松平一族(10)初代松平親氏、泰親、信光、親忠

徳川家康は徳川家の初代当主であると同時に松平氏の9代当主でもあります。松平家初代当主は松平親氏と言います。元々は時宗の僧で徳阿弥と名乗っていたそうです。その先祖は新田義貞がでた新田源氏の分家で世良田氏とも得川氏とも言われています。親氏とその父の有親は関東で足利方の鎌倉公方との戦いに敗れ、相模の清浄光寺で頭を丸め遊行僧になり、三河の碧海郡称名寺(ここも時宗の寺院です)にたどり着いたと(逃げ切った)伝わっています。そこで同じく碧海郡の酒井郷の庄屋宅に一旦婿入りします。そこで第一子で後の酒井広親が誕生します。この酒井広親が後の家康の重臣、酒井忠次、正親の先祖になります。一男子をもうけた後に徳阿弥は酒井の娘とは離別し加茂郡松平郷の松平太郎左衛門の家に婿入りし、ここで松平親氏を名乗ります。親氏は、中山7名と言われた近隣の領主を滅ぼし勢力を拡大させます。しかし彼は地元の伝承では1393年、急死したそうです。1393年といえば、その全年に南北朝が統合され、後小松天皇が即位された、まさに室町時代初期の頃です。

称名寺にある親氏の墓
称名寺境内で親氏を祀る渡宋天満宮
松平郷にある初代親氏像
豊田市の松平東照宮
1367年、足助重政が松平太郎左衛門(親氏の妻の父)の曽祖父在原伸重の協力で建立した。1377年、親氏が松平を名乗った頃、松平氏の菩提寺として高月院となる。
松平郷にある親氏、泰親、親忠妻の墓

親氏の後を継いだのは泰親です。彼は親氏の息子なのか弟なのかなのかはっきりしていません。最近では実弟だったと書かれている物が多いです。親氏急死に伴い幼い信光の代わりに一時期松平家を相続したと言われています。そして兄の子の信光に新領地で便のいい岩津を譲り、我が子信広に旧領の岩津を相続させた、とも言われています。話は前後しますが泰親、信光は松平郷近隣の十ヶ村を統合し1413年頃、泰親、信光、信広の大頭を快く思わない岩津方面の奉公衆、中根大膳を討ち額田郡岩津に進出します。これは山間部の貧しい土地から平野部での領地も獲得した、という事で、後の松平家の発展にも大きく貢献します。ついでに、ですが初代親氏の時に酒井氏が家臣となりますが(実際は兄です)泰親の代に本多忠勝の祖で幕府の奉公衆の本多助時が家臣になります。奉公衆とは江戸時代の旗本みたいなもので足利家直轄の御家人をいいます。奉公衆の本多一族が泰親の家来になった、という事も松平氏の勢いを物語っています。

そして3代目が信光になります。信光は1404年生まれと記録されています。1404年は日明勘合貿易が始まった年でもあります(家康公検定2022のテキストに載ってました)松平氏は彼の代で飛躍し西三河の3分1を配下にしたと言われています。信光には信広という兄がいましたが(先のも書いたが泰親の子説が有力です)彼は中根大膳との合戦で怪我をし、その傷がもとで障害が残ったためそのまま松平郷のみを相続し、岩津城は信光が相続しました。信光は1458年に宝飯郡長沢で関口満興が城主の岩略寺城と弟の長沢直幸が城主の長沢城を陥落させます。この関口氏は察しの通り築山御前の実家の関口氏です。この2城を攻略した経緯は不明です。また54歳の時の戦となるので、この歳まで何をしてたの?とも感じます。続いて1461年、(57歳(涙))松平郷と岩津の中間地点で信光に反抗的な大給(おぎゅう)のこれまた幕府奉公衆の長坂氏、保久(ほっきゅう)の山下氏を攻略します。続いて1465年に額田郡一揆を鎮圧します。この一揆、最初は宝飯郡の牧野氏や大草の西郷氏が鎮圧に向かいます。彼らは勝つには勝ったが首謀者を取り逃がしたため、方々に散った首謀者が各地で狼藉を働きました。その為、改めて松平氏と田原の戸田氏に鎮圧命令が出されました。信光は深溝の長満寺前の砦に籠る大庭二郎左衛門を打ち取り今の蒲郡一帯で多くの所領を恩賞として貰います。田原の戸田氏は今の大平付近で丸山氏を、芦屋助三郎らは駿河まで逃げ延び、そこで今川義忠に打たれます。

大庭二郎左衛門の砦跡に建つ説明板
大庭二郎左衛門は長満寺前のこの付近にあった砦付近で打たれたと言われています。

そして1467年、人の世空し応仁の乱が勃発すると信光は東軍に味方し西軍の畠山氏の居城、安祥城を攻略します。しかし、全部鵜呑みにすれば信光はこの時63歳になります。信光は1414年生まれ、との説もありますが、反歩譲ってそうだとしても53歳です。また信光は長寿で84歳まで生きたと言われています。この頃の松平氏の記録は政所執事の伊勢氏の記録に記述があるくらいな為、なかなか矛盾している箇所が多いです。今の時点で何となくわかっていることは、泰親の嫡男の信広は先に述べた通り松平郷に残り、二男の益親は日野家の被官となり今の長浜市の代官になり、親氏の嫡男の信光が岩津松平として本家を継いだ事くらいです。信光が急激に西三河で勢力を拡大できた理由は2つあります。1つに子だくさんだった為、恩賞で得た領地を信頼できる子供に分け与えれたことがあります。今の蒲郡には竹谷、形原、五井松平、豊川市の長沢に長沢松平、幸田町には大草松平、最終的に本家の様になる安祥には安祥松平の親忠を置き、能見にも七男の光親を配置します。この信光の代に西三河の3分1を配下に治めたと言われています。そしてもう1つは三河には強力な守護、守護代がいなかったことです。幡豆郡の吉良氏は高家という三河の象徴のような扱いで強力な軍事力、支配力はありませんでした。一時期守護となった一色氏は本拠地が丹後や若狭の国で、飛び地の三河を貰っても迷惑状態、一色氏の次に入って来た細川氏も本拠地が四国や畿内なので、これまた三河なんか貰ってもねぇ、、、、って感じ。そもそも、宝飯郡御津の御馬城の細川政信や細川成之なんて誰?って感じです。それだけ期待されてない無名の細川が三河守護として派遣されています。

また信光は1440年に曹洞宗の萬松寺、1451年に浄土宗の信光明寺、1461年に妙心寺(現、円福寺)を建立しています。

初代親氏と二代泰親の菩提を弔うために信光が建立した浄土宗の信光明寺。
信光が夢のお告げで、曹洞宗の龍沢和尚に請願して開山したと伝わっている、萬松寺。
信光の子で長沢松平家の親則の菩提を弔う為建立された、京都の円福寺の末寺。
親忠が継いだ安城城跡地。

一応、松平4代と言われているのは親忠です。彼は信光の三男とも四男とも言われています。信光の嫡男の守家は蒲郡の竹谷に700貫文の土地を買って竹谷松平氏を創設したと言われています。もう1名、嫡男で守家の兄と言われているのが親長です。この頃の親長は伊勢氏の被官として京に在住していたことが確認されています。因みに松平家は5代の長忠の頃まで、宗家、分家みたいなのはなかったそうです。では親忠が本家の様に考えられているのは理由は1467年から1493年にかけ5回行われた、幕府奉公衆でもある挙母城(ころもじょう)の中條氏や三河寺部城の鈴木氏、伊保城の三宅氏、八草城の那須氏らと信光、親忠との間で行われた井田野合戦を3代信光と戦い抜き、最後に行われた1493年の合戦では僅か2千の兵で連合軍8千を打ち破ったからです。西三河だけで両軍合わせて1万も兵隊がいたのか?と考えちゃいますが、まぁ4倍近い敵軍を負かして加茂、品野からの脅威を取り除いたという事です。また、親忠は1回目の井田野合戦が終わった時に戦死者の供養の為、念仏堂を建立し敵味方なく埋葬、供養しました。それが今の浄土宗、長親山常念院西光寺です。ちょっと話はズレマますが、家康の初陣の相手も三河寺部城の鈴木氏です。

親忠は1470年に松平一族の氏神として伊賀八幡宮を創建。1475年には碧海郡畝部郷(うねべごう)の福林寺住職、勢誉愚底(せいよぐてい)を開山とし安祥松平一族の菩提寺として大樹寺(浄土宗)を岡崎市鴨田に建立し文亀元年(1501年)没しました。法名は西忠です。

分かりやすい説明板だが写真が不鮮明(す、すみません)
親忠が一族の氏神として建立した、伊賀八幡宮

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