徳川家康と松平一族(9)、嫡男信康の切腹

天正3年(1575年)設楽が原で強敵、武田勝頼を退けた家康であったが、まだまだ武田軍は徳川家一手で対抗できるほど戦力は低下してはいなかった。天正7年夏頃までは一進一退で高天神城すら落とせない状況で(遠州まるまる1国占拠出来ていなかった)信康を同行させ田中城(高天神城の付城っぽい城)や馬伏塚(浜松市東区付近)あたりで武田軍とにらみ合う程度の日々でした。そんな中、信康の妻の徳姫が、父信長に送った信康の悪行をチクル書状が大きな問題に発展していくことになります。以下は歴史小説や時代劇で描かれている展開です。徳姫の送った書状に中に、信康と勝頼との間に何かある様なので油断ないように、との記述がありました。信長は徳川家家老の酒井忠次と大久保忠世を安土城に呼び出し、徳姫からの書状の内容を確認したところ、両人がそれを否定しなかった為、是非もない事、と信康と築山御前の処刑を言い渡しました。家康は天正7年8月3日に岡崎城に入り信康を大浜城に幽閉しまし。その後、9日に遠州の堀江城に移送。29日に妻の築山御前を冨塚(佐鳴湖西岸)で殺害し、9月15日に二俣城で謹慎中の信康を切腹させました。

しかし、最近では徳姫から信長への密告が原因だった単純な事件ではなく、信康派のクーデター、もしくは岡崎衆と浜松衆の不和が原因だった、と言われています。どういう事かというと言うと以下の通りです。

家康は西に織田信長がいるいじょう、東に延びるしかなく、その為、東、すなわち東三河と浜松方面にエース級の武将を配置します。遠州の武田との攻防戦で家康の直属軍として戦いに参加してる武将は酒井忠次、大久保忠世、本多忠勝に榊原康政、大須賀康孝(遠州戦や姉川でも一軍を率いて活躍してます)らであり、西三河チームで名が通ってる武将と言えば旗頭の石川数正くらいです。信康率いる西三河勢は稀に加茂郡に進出してきた武田軍と武節城付近で取ったり取られたりの戦があるくらいで普段はもっぱら兵站専門でした。兵站専門だから目立たない、戦に参戦できないから手柄を立てられず、手柄がないからから出世できないし加増がないのです。その為、設楽が原以後、西三河の諸将が石川家成(西三河旗頭)ではなく岡崎の若殿、信康にじかに取り入ろうとする傾向が強まります。西三河旗頭が家成から石川数正に代わると、いよいよそれが顕著になっていったそうです。次の当主、信康に早くから取り入ろうと考える武将が多く出た訳です。

深溝の松平家忠(長篠合戦で戦死した伊忠の嫡男)が残した「家忠日記」には、年賀の挨拶も旗頭の数正を差し置いて信康のいる岡崎城に出向く諸将が多くなり、そうした武将を家康は強く叱責したしたとの記述があります。これは、家康のつくった三備の制を無視して、その嫡男の信康中心に東三河をまとめていく、という意向の表れでもありました。岡崎衆の中では信康擁立派の勢いが日に日に強くなっていきます。それに対して、酒井忠次や大久保忠世ら東の重臣達は信康の代になれば岡崎衆の石川数正や平岩親吉、鳥居伊賀らが重宝され自分達は冷遇される、と考えるようになりました。彼らは信康の廃嫡や失脚を望むようになります。そして、そのチャンスが徳姫の書状の件で信康が信長から不興を買っているという形でめぐって来た訳です。信康が廃嫡になり、後継ぎが浜松にいる秀康か、、、、まあ秀康はないにしろ、4か月前に生まれ、家康に寵愛されている於愛の方(西郷の局、宝台院)の男子、長丸辺りが継げば、、、、と考えだします。まさか切腹を仰せ使う、とは考えもしない両名は徳姫からの書状にある信康の所業を否定しませんでした。その姿を見た信長は筆頭家老と上手くやっていけない信康では織田としても不安であり徳川の内部分裂は織田にとって有害なものでしかない。織田にとって有害な物は除去すべし、が信長の方針なので、徳川家の内紛も原因になっている信康が今以上に力をつける前に処分しべし、となった訳です?家康自身も信長を敵(かたき)のように思っている今川女の築山御前と信長に対する軽はずみな発言をたびたび発する信康には頭を悩ましていた事と思われます。。武田信玄は勝頼可愛さに意見の合わない嫡男義信を幽閉し自殺に追い込んでいます。最上義光は嫡男義康を廃嫡し家康と馬が合う次男の家親に後を継がせています。逆に大友義鑑(よしあき)は嫡男の宗麟に殺害され家を乗っ取られました。それが戦国の世です。少なからず家臣団が分裂してしまったのでほっておいても遠から信康派廃嫡か若しくは親子での合戦に発展したと思われます。記録では、家康は岡崎衆に、今後信康と連絡を取らない事、許可が出るまで自宅謹慎する事等を誓わせ、8月3日岡崎城に来城。味方となる家臣のいない、若しくは助けてくれない為、信康はいとも簡単に家康に屈し翌4日には碧南の大浜城に幽閉されています。その後、8月9日には堀江城、8月29日には築山御前を切り、9月15日には二俣城に移っていた信康に切腹を申し付けます。妻の徳姫ですが、なせが岐阜に送り届けられたのは翌天正8年の1月だと記されています。信康死後4か月近く岡崎城に居たと思われます。自分の父親に殺された夫の城に居座っていたのなら、流石、信長娘って感じですが、、、、やはり信長は信康の死にはさほど関与していなかったのかもしれません。

信康が最初に幽閉された大浜城跡地。江戸時代は大浜陣屋がありました。
次に信康が幽閉されたのが遠州堀江城。家康の遠州侵攻時は今川方大沢氏の居城でした。写真中央の観覧車の辺りにあったとされています。
最後の幽閉地、二俣城址地。3か所とも水辺の城に幽閉されています。家康は城に忍び込みやすい海路沿いの城に幽閉し、信康派の家来が脱走を手助けに来ることを願っていた、と言われています。
二俣城の麓にある信康を祀った清瀧寺、信康堂。

余談  関ケ原合戦前夜、戦に間に合わない秀忠をおもい、信康が生きていれば、こんな苦労もなかったろうに、と改めて信康の死を嘆き悲しんだとか関東移動後、酒井忠次の後を継いだ嫡男家次が下総臼井(しもうさうすい)3万7千石を与えられたとき忠次は家康に、今までの自分(忠次)の奉公を考えれば、息子の石高は少なすぎる、と訴えた折り、「お前も我が子は可愛いか」と信康をかばわなかった忠次をなじった、などの話しが伝わっています。また築山御前と信康は殺害されましたが、長女の亀姫は先にも述べた奥平信昌に嫁ぎます。夫の信昌は家康の長女を嫁に向かえた為、生涯側室は持たなかった、というか持てなかったそうです。1585年11月、石川数正は小牧長久手合戦の休戦中に岡崎城を出て大阪の秀吉のもとに走ります。家康を裏切ったのです。家康誕生時は祖父の清兼は蟇目の役をつとめたほどの家柄でしたが、信康事件後は一番の信康派として冷や飯を食わされていた為でもありました。

まあ、これも我が子を泣く泣く切った、信康はあっぱれな若武者だったと徳川の世だからこそ残さないといけない事であり、実際は先のも述べた通り、戦国時代では敢えて大騒ぎする事件でもなかったと思います。

浜松医療センター前のこの地で(佐鳴湖西岸)築山御前は斬殺されました。(訪問時は工事中で刀洗池、の説明板までたどり着けませんでした。
浜松にあり築山御前を供養したお寺です。車で来たので駐車場がなく、写真はこれしか撮れませんでした。

追記  天正2年には大賀弥四郎による武田勝頼に内通事件が発覚。翌天正3年には家康の母、於代の方の実家の当主水野信元の武田方内通事件も発覚。そして今回の信康事件で武田方への内通疑惑で、家康自身にも疑いがかかりそうになった為、先手を打って我が子を切腹させ自分含め松平一族は全滅から救った、との見解もありますが、今の感覚ではマジで?となります。まぁ戦国の世なら普通にありなのかな? 

最後に、、、、 

岡崎市朝日町の若宮八幡宮にある信康の首塚。
説明板
築山御前の首塚。根石に打ち捨てられていた築山御前の首は、石川数正の計らいで祐傅寺に葬られましたが、江戸時代にここ八柱神社境内に埋葬しなおされました。
八柱神社境内にある説明碑。

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