徳川家康と松平一族(1)、竹千代誕生1542年~

まずは、徳川家康は、1542年12月26日の午前4時、寅年、寅の日、寅の刻に岡崎城内の坂谷邸で生まれたと言われています。

岡崎城
家康公産湯の井戸
坂谷邸址

家康の父、松平広忠が、良い世継ぎを得たいと思い、母、於大の方と共に、奥三河の霊山鳳来寺に参篭し、祈願されたところ、まもなく家康を授かったと言われてます。 家康誕生に日に鳳来寺のご本尊の薬師如を守護する十二神将の内で東北東(寅の方角)の守護神、寅童子と呼ばれていた真達羅大将像が忽然と姿を消しました。この像は家康の死後、どこからともなく姿を現したそうです。その為、家康は、真達羅大将の化身と言われました。

家康が生まれたころの三河は東の大国の今川氏と西の新興勢力の織田氏に挟まれた弱小国で家康の父、広忠は言うに及ばず、渥美の戸田氏、設楽の菅沼氏、奥平氏、宝飯の牧野氏、刈谷の水野氏なども一族の存続の為、今川氏と織田氏の間を行ったり来たりの冷や冷やな日々を送っていました。

 

家康の母、於大の父にあたる水野忠政も家康誕生の2年前は尾張の織田信秀軍の一将として、1000余の徒歩隊を率いて松平方の城、安祥城攻めに参加しています。その翌年1541年に水野忠政は松平広忠と和睦し、於大を広忠に嫁がせます。

 

翌1542年に寅童子、徳川家康こと松平竹千代が誕生します。

東照社仮名縁起の家康誕生の場面では、魔よけとして蟇目(ひきめ)の矢を鳴らすのは重臣、石川清兼、臍の緒を切る、胞刀の役は酒井正親が務めています。先例通り称名寺の住持其阿(ごあ)が竹千代と命名します。

少々脱線しますが、石川清兼の孫に有名な石川数正がいます。数正は小牧長久手の合戦後、秀吉の下に走り信州松本8万石の大名になります。清兼は熱烈な浄土真宗の信者であった為、三河一向一揆では最後まで戦を静観し失脚します。後を継いだ家成は西三河旗頭となります。後に甥の数正に西三河旗頭の座を譲った家成は掛川城主に任命されます。関ケ原の合戦後は美濃大垣5万石の藩主となり没します。

 

酒井家は雅楽頭家(うたのかみけ)と左衛門尉家(さえもんのじょうけ)に分かれており、正親は雅楽頭家の筆頭として、家康の家臣としては一番に城持ちとなり(西条城、後の西尾城を任されます)その子孫は播州姫路藩主になります。

左衛門尉家の筆頭は酒井忠次です。家康の右腕として高名な人物です。彼の子孫は出羽鶴岡藩主になります。家康誕生の翌1543年には水野忠政が没し,跡を嗣いだ嫡男の信元は今川方から、再度、織田方に寝返ります。その為、1544年、於大は離縁され刈谷に戻されます。

幼い竹千代は大叔母(祖父清康の妹)お久の方に養育されます。お久の方は桶狭間の合戦後の1561年に元康が岡崎城主として岡崎に戻って来た事を見届けて岡崎城内で没しています。お久の方は遺言により、兄の清康とともに岡崎の随念寺に葬られました。

随念寺
随念寺山門

1545年、広忠は同じく今川方で渥美の戸田康光の娘、真喜姫を娶ります。1546年、広忠は酒井忠尚、松平清定(桜井松平)と、翌1547年には松平信孝と合戦となり、もはや西三河の領地を守ることすら危うい状況に追い込まれます。助けを求められた今川義元は、その見返りとして嫡男、竹千代を人質として駿府に差し出すことを要求します。かくして竹千代は陸路で渥美まで行き、塩見坂付近(諸説あり)継母の実家の戸田氏の助けをかり海路で駿府に向かいます。この時、竹千代小姓として石川数正、天野康景、平岩親吉、阿部正勝、松平与一郎らが同行しています。

 

ちょっと追記

松平広忠は於大との結婚前から大給(おぎゅう)松平氏当主の松平乗正の娘、お久を側室とし2人の男子をもうけていた。長男は勘六忠政で次男の穎新(エイシン)は家康と同じ日に生まれたと伝わっている。お久親子は岡崎市桑谷でひっそり暮らしていたが、1561年の西尾攻めの時に酒井正親が家康に引き合わせたと言われています。家康は、知らぬ事とは言え、今までの事を詫び、広忠寺を建立し穎新を住職とした。

一方、於大も広忠と離別後、阿久比城主の久松俊勝と再婚し3男3女をもうけている。家康は両親同じ兄弟はいない1人っ子であったが、異母弟は男5名の女が3名いました。

 

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