徳川家康と松平一族(2)竹千代の人質交換

岡崎城をバックに竹千代と家康の像

天文16年(1547年)、駿府に向かった竹千代一行は、途中で田原の戸田康光の裏切りにあい敵国尾張の織田信秀の下に送られます。信秀は広忠に使者を送り、竹千代の命が欲しければ今川と縁を切り織田方に鞍替えするように脅迫しますが、広忠は応じず義元に義理を通します。竹千代は一旦、信秀配下で熱田の豪商、加藤図書助順盛に預けられます。一方、広忠の心意気に打たれた義元は翌天文17年(1548年)三河に2万の援軍を送ります。

竹千代の幽閉地の看板
加藤図書屋敷跡

まず手始めに裏切った戸田康光の守る田原城を攻略、康光は討ち死にし、嫡男の暁光(たかみつ)も2年後の1550年に討ち死にをします。これにより田原戸田氏は滅亡し、仁連木の戸田忠重が戸田本家となり幕末まで続きます。

天文17年(1548年)3月今川勢は返す刀で岡崎に入り、ここに第二次小豆坂合戦の火蓋が切って落とされます。戦いは今川松平の連合軍優勢のうちに終わり、織田勢は安祥城に退却します。ここに三河は短い安息を迎えますが、翌天文18年(1549年)3月に大事件がおこります。

安城城(安祥城)の縄張り
安城城跡(安祥城址

近臣の岩松弥八による広忠刺殺事件です。義元は、城主の居なくなった岡崎城に兵を入れると、織田方の安祥城を攻め城主の織田信広(信秀の長子で信長の兄)を生け捕りにします。これを持って信広と竹千代の人質交換が笠覆寺(笠寺観音で有名)で行われます。

笠覆寺内の石碑
笠覆寺

これが1549年の11月頃です。桶狭間の凡将義元とは思えない俊敏さです。岡崎から戻った竹千代は幼君として家臣に支えられながら岡崎城主として、、、、とはいかず、数日の内に人質として駿府に向かいます。途中で父広忠が密葬された能見原の月光院を拝し、将来狭すぎて墓の位置が分からなくならないように目印の松の苗木を植えます。1560年、桶狭間合戦後、今川勢が退却した岡崎で月光院を探す元康(この時期は松平元康です)の前に大きな松が姿を現します。ここが今の松應寺です。

松平広忠公御廟所
松應寺

上記が、今までの定説ですが、最近は次のような説が主流となりつつあります。

天文15年頃より、今川方は遠州が、織田方は美濃の齋藤道三が、今川織田の小競り合いの間に活発に動き出します。その為、義元と信秀は一旦講和を結びます、その密約内容が遠州と東三河は今川圏、西三河は織田圏に、というものでした。天文16年(1547年)織田信秀は岡崎城を攻略し広忠の嫡男竹千代を人質とし尾張に凱旋。義元も信秀に遅れることなく進軍。東三河で牧野氏を傘下として向かい入れ戸田氏を攻略します。そして天文18年、勢力圏を接した今川織田は当然の様に戦になり、織田は安祥城と信広を奪われ、竹千代との人質交換となった、という説です。

戸田氏に竹千代を奪ってまで織田に鞍替えするメリットがない事、真喜姫は岡崎を追われることなく1571年まで岡崎城内で暮らし、死後は龍海院に葬られたことなどを考慮し、今川織田の一旦講和説は充分あり得ると思います。

龍海院の別名、是ノ字寺の石碑
龍海院

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする